美しい牢獄と、貧しく汚れきった自由

イトウ先生が自殺したと聞いて以来三ケ月、中断していた絵を、愛子は再び描き始める。
悲しみと怒り。黙っていると吐きそうになる喪失感。
思いの限りをすべて絵筆に込めて、暴力的にそして丹念にキャンバスに描き込んでいく。
外は雨。10万本の槍が叩きつけるように突き刺すように降ってくる。

愛子の絵を初めて褒めてくれたのはイトウ先生だった。
「愛子の絵は、触れた感じとか匂いとか味覚が伝わってくるから好きだ。」
あこがれの若い先生に褒められとても嬉しかった。
すっかり舞い上がった愛子はバレンタインの日にチョコを渡しに行くが、
「僕は受け取らないことにしてるんだ。」と軽く断られた。
ひどいと思った。このときが一度目の失恋だった。
しかし、失恋したにも関わらず、日を追うごとに愛子は先生に夢中になっていった。

イトウ先生は、学校の要請で県展などに出展しては賞をもらうのだが、あまり関心がないらしく
中央画壇には1ミリたりと、近寄ろうとしなかった。
「先生はどうして職業画家になろうとしないのですか」夕暮れ時の美術室で愛子は尋ねたことがある。
「画家というのは一つの境地なんだ。決して職業なんかではない。
精神をある一定の集中力で保ちながら、物事に愛情を持ってかかわり続けること。
それを画家と言うんだ。本物の画家は絵をかかなくとも作品を出さなくとも画家でありつけるんだ。
それにね。君こそが本物の画家になる資格と才能があるんだよ。」
愛子は驚いた。しかし、進学にあたりあえて美術系の大学を選ばなかったのは
こういった先生の言葉があったからだ。

イトウ先生が卒業前、最後の授業で言った言葉を愛子は思い出していた。
「目の前にある果物なり、風景なり、人物なり、モデルの表面的な形を
ただ、追いかけるだけなら、どんなに上手であってもそれは絵とは言えない。
つまり写真以下です。
対象に愛情を注ぎなさい。深く関わりなさい。
そうすることで初めて絵を描く事ができるのです。」

イトウ先生が愛子の気持ちを受け止められなかったのは同性愛者だからだったと人づてに聞いた。
またその自殺の原因は後天性免疫不全症候群のせいだったとも。
しかしそんな噂の真偽はどうでもよかった。
愛子が先生を深く愛し続けてきたという事実に変わりようがないのだから。

愛子は、休むことなく眠ることなく絵を描き続け、完成させつつある。
画面を上から、つきぬける青が夕暮れを思わせる赤へと
グラデーションを描きながら変化させる。
中央には心臓を、そしてその左右で向き合う人物。

「もう、待つことはやめた。
美しい牢獄から抜け出し、貧しく汚れきった場所で自由をさがそう。」

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