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<<   作成日時 : 2013/11/24 02:46   >>

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物語の危険を考える
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久々のブログです。ご無沙汰してました。
今回、いわゆる“物語”が持つ危険性を考えたいのですが、その前に僕自身のエピソードを一つ。
従姉から聞いたのですが、僕は幼児の頃、彼女と会う度に
「大きくなったらウルトラマンになる!」を連発してたそうです。全く覚えてないのですが・・・。
大学生の頃、その話を友人に話したところ、彼は半分笑いをかみ殺しながらこう言ったのです。
「よかったやん、望み通りにウルトラマンみたいな顔になって」

さて、“物語が持つ危険性”とは何でしょうか?
僕の考えを説明します。
人が社会を形成していく中で、「こうあって欲しい」「こうであればいいのに」と言った”願望”
もっと踏み込んで言えば”欲望”がかならずや立ち上ってきます。
それ自体は善とも悪とも言い難いのですが、ある程度の”数”が”集団”となり”多数派”を形成していく中で
「こうあって欲しい」が、いつのまにか「こうあるべき」にすり替わっていく時があります。

これは論理として矛盾があります。
論理的には「こうあって欲しい」は「こうあるべき」に等号(イコール)で結びつきません。
「AはBであって欲しい」と「AはBであるべきだ」との間には彼岸の隔たりがあります。
しかし往々にして、本来結びつくはずのない両者が、さも当然かの様に錯誤されます。
(本来結びつくはずのない)両者を結びつける為の、正当化さらには正統化する道具・媒介として
”物語”が使われる事が多い様に思います。

あらかじめ断っておきたいのですが、僕は物語を否定するつもりはありません。
ただ、劇薬としての”物語”のもつ副作用に自覚的でありたいと考えているのです。
昨今、物語は肥大化し大手を振って歩く様になりました。
時として、物語は僕達に”入場料の支払い”を命じ、さもなくば”退場”を命じる様な場面に出くわす様になりました。
ここにおおいなる危険を感じます。
僕達は、もう少し「物語」から自由になる事は出来ないのでしょうか???

●物語に自己を投影させる事
幼い僕がそうであった様に、ヒーローなりヒロインなりに憧れるうちに、自分自身を投影させる事はよくある事だと思います。
自分をウルトラマンだと思い込む事は、とても心地のいいものです。何とも言えない万能感を伴います。
さすがに、成長の過程でいつまでも「在りもしない架空の物語・ファンタジー」を自分の中に保持させる事は難しくなりますが・・・
そこで多くの場合、もう少し現実感のある実在の人物を”憧れの対称”として「自分もああなりたい」と考えるものです。
スポーツ選手だとか、アイドルだとか、実業家だとか、政治家だとか、果ては歴史上の偉人とか・・・

憧れがある事は悪い訳ではないでしょう。たとえそれが大人であっても。
しかし、「憧れ」と「自己」を同一視する事には無理があります。少なくとも論理的ではありません。
本田圭介やイチローに憧れる事は有り得ても、自分と本田圭介やイチローを同一視する事は
おかしな事ですよね。
にもかかわらず、ここに「ナショナリズム」という別のファクターが入り込む時、
おかしな事を平然として唱えがちです。
「本田圭介やイチローという選手のいる日本は凄いだろう」から派生して
「(俺を含め)日本人は凄いだろう」はては「本田圭介やイチローを始め(俺達)日本人は、お前らなんかより余程凄い」となります。
言うまでもなく、ここには錯誤があります。
凄いのは本田圭介やイチローであって、無関係で能力も無い個人が、ただただ日本人という共通項だけで
自己を投影させ、思い上がるのには、非常に見苦しいです。
何やら隠したはずの劣等感が透けて見えるし、虚しくさえ感じます。

政治家や実業家が、”坂本龍馬”や”織田信長”を持ち出すのにも同様な理由から違和感を覚えます。
歴史上の出来事に現代との類似性を見出す事はあっても、根本的には今と異なる状況・環境です。
”坂本龍馬”や”織田信長”が醸し出す背景としての物語を、現代に投影させること。
ばらばらの民を集団化・結束化させる為に、意図的に錯誤しているのかもしれません。
もっと単純に彼等の資質として幼児性から脱却出来ないだけかもしれません。
しかし、その「意図」の有る無しに関わらず、「錯誤」が生み出すものが健全な未来であるとは思えません。

●悲劇がもたらす陶酔感
日本人の好きな悲劇として「忠臣蔵」があります。
人形浄瑠璃(文楽)や歌舞伎の演目のひとつで、赤穂浪士の仇討ちに題材をとったフィクションです。
この物語には、日本人の琴線に触れる要素がいくつか多層的に絡み合います。
封建制度における主従の絆、理不尽や横暴への忍従、その復讐がもたらすカタルシス、
幕府と言う絶対権力に対する抵抗、そしてそこに一貫して通底する「義」や「仁」の要素。
僕もうっかりすると、年末にドラマなんか眺めながら、不覚を取られて泣きそうになる事があります。
そしてそれは、どういう訳か陶酔を伴いとても心地が良いのです。

以前、悲劇がどうして心地よいのかを考えた事があります。
本来的には、「悲しい」というむき出しの感情に歓びを見出す事は難しいはずです。
しかしそこに、自己犠牲、献身などの物語性を加味すると、途端に悲劇が美しくパッケージングされます。
往々にして、その物語性を加味するのは、本人ではない第三者です。
たとえ、本人が自らの意思でその物語に飛び込んだかに見えたとしても、大概は得をする第三者がいます。
困った事ですが・・・
悲劇がもたらす陶酔感が故に、私達は本人の気持ちに緊切したと錯覚します。
そこにある悲しみを、鈍感にも踏みにじっているというのに。

とは言え、フィクションであり、エンターテイメントである悲劇を愉しむ分には
目くじらを立てる程の事ではないでしょう。
酔わない事を前提に嗜むなら、ウイスキーも悲劇もつまらないものになるでしょうから。
問題は中毒性です。

●第三者が物語の複製と再現を目論む時
この秋、横浜の踏切内で倒れて動けずにいた老人を、救助に向かった一般女性が亡くなると言う痛ましい事故がありました。
この救助行為自体は、この刹那に於いての判断としては、他に有り得なかったのかもしれません。
「正しい」とか「間違ってる」とか、当事者ではない僕には価値判断出来ません。
この件をさして、内閣が表彰すると言う事があったのですが
官房長官談話として「他人にあまり関心を払わない風潮のなかで、自らの生命の危険を顧みずに救出にあたった行為」と発表されました。
美談としたいのはわかりますが、「他人にあまり関心を払わないその他の大勢」にも自己犠牲を強いる様にも聞こえます
さらに言うなら、踏み切り事故にとどまらず、「国益の為なら自己犠牲を厭わない愛国者」を奨励するつもりでしょうか。
なにか美談として複製と再現を目論む・・・つまり胡散臭い政治的意図を感じます。

政府が靖国神社への参拝へこだわりを見せている事も、他国からは「戦犯の問題」や「侵略戦争の肯定」が指摘されますが、
案外、本当の目的は「国家への忠誠心と尊い自己犠牲」を複製と再現の目論みにあるのかもしれません。
先の大戦での特攻隊に対して、僕が感じる「尊い犠牲」と、自民党が言う「尊い犠牲」はニュアンスが180度違う様に思います。
僕は彼等の意思を「二度とこう言う惨事を繰り返さないための自己犠牲」として受け止めていましたが、
自民党政権は「いざとなればお国の為にいつでも死ねる覚悟」を際限なく繰り返したいかの様に見受けられます。
そして、むかつく事には彼等自身をその勘定に入れてないでしょう。

だったら、有りもしない美しいファンタジーよりも、誰も犠牲にならない為の方策を考える方がよっぽど価値ある事に思えます。
確かに、それは困難である事は認めます。しかし、現実を考えるとこれは避けて行けるはずがありません。
自己犠牲のもと、ばたばた命を絶つ集団が持続出来るはずも無いのですから。

さて、少し長くなりましたので、今回はここまでにして
続きを次回考えたいと思います。

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